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みなが勘違いしている中で、オリンピックがやってくる

スペイン女性といえば、「カルメン」をイメージする人は未だに多い。

しかし、原作を読めばわかるが、カルメンは、民族的にはジプシー(ロマ)女性であって、スペイン人ではない。そもそも原作者のメリメも、オペラを作ったビゼーもフランス人。(だからオペラ自体もフランス語で歌われる)。つまり作品そのものも、スペインのものではない。
もっとも有名なアリアの「ハバネラ」も、スペイン音楽ではなくキューバ民謡の転用だ。(厳密に言えば、オペラが作曲された、1875年にはまだキューバは独立しておらず、スペイン領であったので、そういう意味では「スペイン」だったが)
それでも、いまだに「カルメン」といえば、スペインがイメージされ、スペイン女性は「奔放な魔性の女」的に描かれることが多い。

ステレオタイプな印象とはそういうものだ。そして、そのようなイメージほど、実態とかけ離れていても、一人歩きする。

そして、悲劇なのは、80年代から90年代の日本は、間違いなく「世界でも有数の豊かな国」であり、「国民は働き蟻に例えられるほど真面目で勤勉で、当時の日本の売り物だった電気製品に代表されるように、最先端の精密な作業を確実にこなすことができることで世界に名を馳せていたこと」だった。

この「日本がもっとも豊かだった時代」、90年代の初頭、ある南米の大女優さんのお宅でお食事をごちそうになっていたときのことだった。
「そういえば、夫が、蚤の市でこんなものを見つけてきたの」
と見せられた、東洋的な文様が精緻に描かれた有田焼風の陶器の皿の裏には、「Made in Occupied Japan」の文字が記されていた。

占領下日本。それは、1945年〜52年の、日本が連合国に占領されていた時代に、日本で輸出用に作られた皿だったのだ。

当時、ニューヨークを買い占めかねないほどの勢いがあった日本にも、わずか40年前にそのような時代があったという歴史的事実に、皆が感銘を受けていたとき、当時80歳を超えていた女優さんの母上が漏らした一言は、その場にいた人たちをもっと驚かせた。

「日本製品が『優秀』なんていわれて、みんな欲しがるようになったのは、ほんの最近のことよ」
ええっ、という皆の顔の中、彼女は静かにこう言った。
「私の若い頃はね、日本製品と言えば、『安かろう悪かろう』の典型みたいなものだった。それがいつからかしらねえ、日本の人が努力したんでしょうねえ。でも、お嬢さんには悪いけど、私はまだ、なんとなく日本製品ってちょっと抵抗があるの」

人にもよるだろうが、高齢者が記憶にとどめるもっとも鮮明な印象が、30歳〜40歳ぐらいの、もっとも活動していた壮年期のものであるなら、それは不思議ではない。彼女にとっていちばん記憶に深く刻まれている日本製品の印象は1960年代のもの。戦後の貧しい日本が、1ドル360円のレートのもと、繊維製品を主要な輸出品とし、機械製品についてはアメリカ製品をまねて試行錯誤をし、『暮しの手帖』誌に罵倒されるような粗悪製品が堂々と売られていた時代だからだ。まさにその時代の日本製品は、「安かろう悪かろう」だったのだ。

しかし時代はさらに変わる。
80年代から90年代の「豊かで、世界で最先端の技術を持つ」日本は、すでに30年前の姿だ。
世界中の目抜き通りや空港の看板に煌めいていたSONYやPANASONICの文字が、21世紀になって、少しずつ、HYUNDAIやSUMSUNGなどに取って代わられているのに気づいてからも、すでに大分時間がたっている。いまでは、さらにそこにHAIERやLENOVO、HUAWAIといった文字が加わっている。

とはいえ、いま、50代後半以上の人たちにとっては、いまだに、「優秀な日本製品が世界をリードし、席巻していた」記憶こそが、とても鮮明に残っているものだろう。時代が変わっていたとしても、いったん強く刻みつけられた記憶から生まれる印象とはそのようなものだからだ。

それは良いことでも悪いことでもある。

不安を表明されながらも、コロナ禍のオリンピックに世界から選手団が送り込まれてくるのは、「なんやかや言っても、日本は最先端の技術を持ち、日本人は勤勉で精密な作業が得意なはず」という印象が、まさに指導者層である、ある世代以上には健在からだ。
IOCのトーマス・バッハ会長も1953年生まれ67歳。日本が最強だった時代にビジネスマンとしてのキャリアを積んだ人だ。ジョン・コーツ副会長もしかり。1950年生まれの71歳だ。
言うまでもなく、今、日本の中枢にいる与党政治家の方々には、さらにその上の世代が多い。

欧米の50歳代以上の人々のイメージの中の日本は、80〜90年頃のエネルギッシュでリッチな日本だ。
アメリカを脅かしかねない経済力を持ち、精密正確な作業を難なくこなし、最先端の技術力を持つ日本だ。

そして、70代以上の与党政治家たちの茫洋としたイメージの中の日本は、高度経済成長を前に、オリンピックをステップ台にする日本だ。

そう考えれば、彼らがあまり深く考えず「パンデミック下であっても、日本が本気を出せば、オリンピックは可能」だと思うのもむべなるかな、だろう。べつに、日本国民はどうなってもかまわないなんていうほどの悪意があるわけではないと思う。

オリンピックはどうしたって不可能だろうか?
必ずしも、そうとも言い切れない、と私は思う。

本当にオリンピックをやりたかったなら、最低限、コロナ禍が始まった昨年春の段階で、PCR検査での確定診断によって感染状況をどの国よりも完璧に管理し、日本の重症化率が欧米に比べて軽かったことにあぐらをかかず、オリンピックで、欧米・アジア・アフリカ諸国からたくさんの選手や関係者が来日することが自明である以上、若者世代を含む希望する全国民に6月までにワクチン調達と接種を完了させ、まず国民の側に、考えられる限りもっとも完璧な受け入れ態勢を作ることは最低必要条件だった。IT技術をフル活用することで、感染状況だけではなく、病床や医療資源、医療従事者の勤務状況などを的確に把握・管理し、医療崩壊が起こらないようなシステムも去年のうちに作っておくべきだったのは言わずもがなだ。

その上で、選手及び関係者には、最低、開催3週間前までの来日を必須とし、選手村、及び、一般人立ち入り禁止の指定ホテルでの2週間隔離+こまめなPCR検査を行うことも必須だった。なぜなら、選手や関係者は先進国からだけ来るわけではないからだ。

そのいずれをも、最先端の技術を駆使し、緻密でこまめな分析とシステマチックな即時対応を両輪として稼働できるなら、不可能なことではない。

そのうえで、無観客(あるいは、ワクチン接種と3日以内のPCR検査陰性と指定マスク着用を義務づけたうえでの限定観客数で)開催、というなら、コロナ禍であっても、「安心・安全」性の高いオリンピックは開催できたかもしれない。
もしかしたら、戦後の瓦礫の中から復興して先進国の仲間入りを果たした努力の記憶の生々しい80年代の日本人なら、実際にそう考え、日本の技術力を世界に見せつけたいというぐらいの意気込みで、それぐらいのことを実行できていた「かも」しれない。
(もっとも、それでも、「猛暑対策」はどうするのか、原発事故の汚染水のどこがアンダーコントロールなのか、といった問題は残るわけだが、ここでは、コロナ問題だけを論じることにする)

問題は、数十年前の颯爽としてエネルギッシュな日本のイメージは、たとえ、根強いステレオタイプとして多くの中高年世代の心に刻み込まれていたとしても、それは「いま」の現実ではないことだ。40年前の日本は、いま現在の、製造業が見る影もなく衰退し、最新のIT技術には完全に乗り遅れ、中抜きや改ざんや保身ばかりが横行するようなモラル破綻した日本ではない。

そして、現政府のやったことは、さらに時代を遡り、ほんの一瞬アジアの盟主であった大日本帝国の、光の当たった部分だけの幻影に憧れるあまり、彼らがそのすぐ後に国を破滅に追い込んだような、「神頼みのなりゆき任せ」だった。

現実が見えないまま、それぞれが過去の甘い記憶に身を委ね、そして、オリンピックがやってくる。

人質司法・司法のトンデモって、実は他人事ではないのですよね

数日前の6月8日、東京地検特捜部が、菅原一秀前経済産業相を公選法違反罪で略式起訴したという速報が流れました。
これを見て、ネット上に検察を称える声もあったが、引っかかってはいけません。
これは、裁判ではどうやっても有罪を免れないのがわかったうえで、そのダメージを最小限にとどめるための忖度丸出しの行為だからです。

この問題のトンデモな経緯は、郷原弁護士のブログに詳しいのですが、ざっと説明するとこういうことになります。

①選挙区で香典を配るなど、露骨な選挙違反をがんがんやってたことが報道されたが、検察はシラっと不起訴にした。
②それに先立ち、その前に、法的に有効な刑事告発状が出ていたにもかかわらず、不受理にして送り返してきた。なぜなら、検察審査会に不服申し立てができるのは告発人だけだからで、告発状を不受理というかたちで「受け取らなかった」ことで、検察審査会に申し立てできないようにするのが見え見えだった。
③怒った告発人が、郷原弁護士に相談。郷原弁護士は、告発状が法的に有効なものである以上、受理しないこと自体が違法なので、検察審査会に申し立てが可能、という法解釈で検審に不服申し立て。
④検審が受理して審査したら、起訴相当議決が出た。

当然、検審には、不利な証拠は出さないなど、検察は徹底して工作してたはずで、それで起訴議決が出たわけですから、よっぽどだったのでしょうね。
それで、もう一回起訴議決が出たら、強制起訴で裁判になります。

裁判になれば、証人尋問もありますし、検察の捜査に問題があれば、それも明らかになる可能性があります。
強制起訴の場合、検察官役は指定弁護士がやりますから、検察の捜査が穴だらけだったり、あるべき証拠がなかったりしたらバレちゃいます。
逆のケースですが、陸山会事件の時は、強制起訴で裁判になったことで、検察が偽の公文書を、それも大量にでっち上げていたことがバレちゃいましたもんね。
菅原氏の場合も、裁判になったら、検察が隠したがっていたことがボロボロ出てくる可能性があった、ということでしょうか。

そこで、あわてて二回目の起訴相当議決→強制起訴、という流れを阻止するために、法廷を開かずにすみ、証人の尋問もなしで書面だけの審理で、Max罰金で済む、略式起訴でごまかそうとしたわけです。
この手口、ご記憶の方も多いでしょうが、麻雀黒川の時にも使っていますね。
よっぽど、公開の法廷で明るみになったら都合の悪いことがあるんでしょうねえ。

というように、いろいろ腐臭が漂っているのが、日本の司法現場です。

そんな矢先に出たのが、この書籍、「人質司法」(角川新書)
人質司法
高野隆弁護士は、カルロス・ゴーンの弁護人としてマスコミに取り上げられ、この本でも、カバーかよと思うぐらい太い帯にゴーンの写真が使われているのですが、本庄トリカブト事件をはじめとする、冤罪の疑いのある刑事裁判に多く携わっている方です。

なので、「ゴーン氏の言い分」を滔々と述べている本ではありません。
むしろ、長年の経験で痛感している日本の刑事司法の歪みっぷりを、ある意味、ぶちまけた本です。

刑事事件なんて、他人事だと思っているかもしれませんが、どう考えても正当防衛だろうみたいな事件で重罪にされそうになったり、ただ道を歩いていただけなのに麻薬を所持していたことにされたりと、ちゃんとした弁護士さんがついていなかったら、「運悪く」で、人生が詰むようなケースがいくつも紹介されていて、いやいや背筋が冷えますよ。

そして、カルロス・ゴーンの逃亡事件は、その、国際的に明らかに異常なレベルの刑事司法を、そのまま、外国人、それも(東電OL殺人事件で冤罪に苦しめられた)ゴビンダさんみたいな貧しいネパールの出稼ぎの方ではなくて、億単位のお金を簡単に動かせるレベルのお金持ちの有名人にぶつけちゃったってことなわけで。
つまり、ドラマじゃないですが、ぜったいにまともな裁判が行われないということをゴーンみたいな人間が確信してしまったら、そら、どんな卑怯な手を使ってでも逃げるやろ。そう仕向けたんはアンタらやで、ということが、淡々と説明されているともいえます。
検察出身の、いわゆる「ヤメ検」弁護士のアレなところも、さらっと触れられています。

私はカルロス・ゴーンのような、贅沢奢侈好きの新自由主義者ははっきりいって嫌いですし、頭のいい人のやる限りなく背任に近いような行為を立証するハードルは相当に高いとは思いますが、だからといって拷問してよいとは思わない。ましてや民主国家を謳う国家が、国際基準で拷問と見做されるような取り調べで、容疑者を有罪にしてしまうようなことはあってはならんのです。

これは、べつに政治家としての小沢一郎を支持していないけど、検察が証拠をでっち上げて政治家を失脚させるようなことはしてはいかんだろう、ましてや、政権交代するかどうかなんていう微妙な時期にそれをやるのは、そっちの方がよっぽど犯罪だろうというのと同じです。

逆に、明らかに犯罪以外の何物でもない、つまりまともに裁判をやったら、裁判官が無罪判決をちょっと書けないような真っ黒黒の事件でも、それを「裁判にかけないため」に不起訴を連発したり、検察審査会に細工したり、あげくにそれでも起訴議決が出ちゃうと、強制起訴逃れのために略式起訴でごまかす、なんてのは、ほんとに「権利の濫用」というのを通り越しています。

民主国家の原則というのは、「法の下の平等」が守られていることです。
政権に近いと、相当のことをやらかしても不起訴になり、そうでないとでっち上げられてでも有罪にされる、なんてのは、民主国家とは到底言えません。

一つだけ救いがあるとすれば、一昔前なら、検察がどんなに暴走していても、メディアが結託していたら(というか、結託度高いので)、一般国民の私たちが実態を知ることは至難でした。
だからこそ、せめてしっかり目を開けて、必要に応じて、きちんと声をあげていかなければということですね。庶民の声なんて微力ではありますが、それでも大きくなれば、怒濤となることもある。ないよりずっとマシなんですよ。
あの黒川だって、SNSがなかったら、いまごろ、堂々と検事総長様だったわけですからね。


ひさしぶりの外出で、北斎

コロナ禍で、きわめてストレスがたまっている八木です。
一年以上日本に釘付けで、しかも半年以上歌うこともできないというのは........なんといいますか、数十年(爆)なかったことでして、こんな時代が来るなんていったい誰に想像できたでしょうか。

もちろん、新型コロナ Covid-19 がただの風邪などではないのは明らかで、去年の日本が『ファクターX』とやらで、あまり死者が出ていなかったとはいえ、メキシコの私の友人知人にはもう何人も犠牲者が出ています。
日本でも、死者が13000人を軽く超え、これからさらに変異株が猛威を振るいそうというその中で、オリンピックを強行開催しようとするようなディストピアがまさか21世紀に出現するとは、これまた、やはりいったい誰に想像できたでしょうか。

もちろん、7万人とか9万人ともいわれる方々が大挙して日本にやってくるというのも「ふざけんな」レベルのリスク要因ですが、それ以上に、1万5千人を擁するであろう選手村から一人の感染者も出ない、という確率ってあり得ないほど低いと思うのですが、そういう場合、どうするんでしょうね。やっぱり熱が出ても4日は選手村待機なんでしょうか。選手村クラスター発生を想定しないでのコロナ下のオリンピック開催って、なんかもう異世界ファンタジーのようです。

と、目眩がしそうなことが続く中での緊急事態宣言延長とはいえ、一部緩和したので、ひさしぶりの外出です。
去年、岡田美術館の北斎の肉筆画展を見てから気になっていた、映画「HOKUSAI」と、江戸東京博物館での北斎・広重展です。

映画「HOKUSAI」は、それなりによくできた映画、という感想。(あくまで個人の感想です)
若き日の北斎を演じる柳楽優弥がとにかく美しい。(ので、彼が推しだという方は、それだけでも10回ぐらい見に行くと思います)
そして、阿部寛演じる蔦屋のキャラが立っている。
歌麿を演じる玉木宏、晩年の北斎を演じる田中泯もそれぞれに非常に魅力的。

「隠れた才能のある孤高の青年が艱難辛苦の末にたどり着いた道....」的なストーリーが好きな人なら、感動すると思います。そういう意味では、よくできています。
史実とはまったくかけ離れてるけど。

惜しむらくは、前半の登場人物たちがキャラ立ちしていたのと比較して、後半もっともドラマチックなエピソード(これも史実ではありません)の主となる柳亭種彦の存在感が弱いとか、田中泯は好きだけど、舞踏みたいなシーンはこの映画には不要じゃないのかとか、江戸っぽさ・レトロ感を出したかったのかもしれないけど、全体に、色合いがくすみすぎだろうとか。題材、画家とその絵(正確には浮世絵だけど)なのに。

要するに、「フィクションとしては、ちゃんとお金もかけているし、よくできている」と思います。
ただ、この脚本家は、あまり北斎の作品をじっくりご覧になったことがないのかもしれない。

確かに北斎と言えば、酒や美食や女に興味ないとか、名をなしたあともボロを着てたとか、その手のエピソードには事欠かないですが、それはストイックに求道的だったからではなく、単に、そういうものに興味がなかっただけで、キャラとしては、どう考えても「アマデウス」ではないかと。
年を取っても巧く描けないと愚痴ってたという有名なエピソードもありますが、それとて、見ているところが「他人の評価」ではないからで。

そういう引っかかりを胸に、江戸東京博物館に。
6月20日までの特別展「冨嶽三十六景への挑戦 北斎と広重」です。

富嶽三十六景を改めて拝見いたします。

富嶽三十六景というと、大波(神奈川沖浪裏)や赤富士(凱風快晴)ばかりがよく取り上げられます。

もちろん、これは風景メインのシリーズなのですが、ただ、この富嶽三十六景に、北斎はたくさんの人間も描き込んでいます。
豆粒のように小さく、でも、その一人一人は驚くほどちゃんと生きています。単に「配置」として駒のように置かれている人間など一人もいない。江戸日本橋の人混みの中に描かれている群衆まで、一人一人が息をしていて、多分それぞれにドラマがあってと思わせるほど、北斎は人を描いています。
そして、その北斎の描くものには、ことごとく動きがあります。波はもちろん、人にも馬にも。
ポーズを取った静止画ではなく、動きの一瞬を切り取った、むしろスポーツ写真家のような視線です。

並外れた動体視力と、細部まで見極め把握できる緻密な視覚記憶力、そしてイカした構図力。それが、北斎です。
なにより、絵を描くこと自体が好きで好きで仕方がない。楽しくて楽しくて仕方がない。
そういう人でなければ、あんな絵を、しかも大量に描けるものではない。
とはいえ、そういうキャラだと、映画にはしにくいでしょうけどね。(下手するとのだめカンタービレになっちゃいますからね。)

で、ずいぶん久しぶりに両国に行ったついでに、開いているかなと、ORI CAFEに。
白馬さんという高級カメラバッグの会社が、社長さんの趣味丸出しでやっているお店です。なぜ、オリカフェかというと、ジャガード織りで富嶽三十六景を再現したものを飾っているギャラリーカフェだから。
そのあと、浅草で晩ご飯を食べて帰りましたが、ふだんは簡単には入れないレベルのお店が、他のお客なし。
これでは、本当に飲食店は辛いだろうなと思いつつ、(いや、私だってほぼ失業状態なんで、人の心配してる場合でもないんですが)、久しぶりの外出を終えた次第です。

美術館や映画館に足を踏み入れたのが、本当に久しぶり....ということ自体も、私にとっては、稀なる事態でありました。




感染症と利権〜あのとき、本当は何が起こっていたか

さて、今年の新型コロナにからめて、2009年のメキシコ豚インフルについて言及されることがあるので、あの件について、私の知っていることを少しまとめておこうと思います。

まず、あのパンデミック騒ぎは、2009年4月メキシコで謎の強毒性インフルエンザが発生し、バタバタ人が死んでいるというニュースから始まりました。豚由来であるということから、このメキシコ発と思われるA型H1N1亜型インフルエンザは豚インフルと呼ばれるようになったわけです。
現在では、感染症に地名を付けて呼ぶことは禁止されていますが、このときはまだそうでなかったことは追記しておきますね。

このとき、とりわけ若者の感染死亡率が非常に高いと報道され、政府が緊急事態宣言を出したことで、世界中で「恐怖の」感染症に対しての軽いパニックが起こりました。
日本でも空港検疫を行う「水際作戦」が実施されたのを覚えている人もいるでしょう。そうです。今回のCovid-19と同じです。

ただ、この水際作戦は、ほぼなんの意味もなかったことも、当時、やはり厚労省は(おそらく国内感染者数をわからなくするために)できるだけPCR検査を行わない方針を出したことも、当時からまっとうな医療関係者の間では批判が出ていました。

その実態は、この2009年5月のお医者さんのブログ記事でよくわかります。

韓国からの帰国者発熱相談の電話、早朝あり、ソウルの国際空港での感染地域からのトランジット客接触否定できないため、“発熱相談センターに連絡・相談の上、受診します”と答えた。その患者が来院したが、”インフルエンザA”の判定となった。
で、保健所に相談したところ、”当県では、感染流行地域・国からであっても、ウィルス検査はしません”という県の方針ということ、電話の上、確認した。国からの達しはまだ無いはずなのに、“通常型の季節型”と全て見なしてしまう方針のようだ。 国・県の隠蔽方針を身をもって実感してしまった。
https://intmed.exblog.jp/8304037/

と書いてあります。ほらね、すごいでしょ。(ちなみに、この時代はツイッターではなくて、2ちゃんねる全盛期でした。懐かしいですね)

そのあたりのバカバカしさは、医師であり作家の海堂尊氏のこの豚インフル事件をモチーフにした「ナニワ・モンスター」でも描かれています。(今回の新型コロナがらみで、この本を「現在を予言した本」として取り上げているむきがありますが、別に海堂氏が超能力者で現代を予言したのではなく (たぶん)、厚労省は2009年に犯した同じ過ちを、性懲りもなく繰り返しているに過ぎないわけ)

さらに言うと、2009年5月1日に首都圏で初の高校生の感染が出たということで、当時の舛添大臣が緊急記者会見を行った直後に、それは誤判定でシロだったという発表があり、舛添大臣がフライングをやったとして謝罪に追い込まれる事件がありましたが、このときの国立成育医療センターの斎藤昭彦感染症科医長の談話が、「簡易検査の診断精度は約8割だったので、最初の判定が誤っていた」ということでした。

現在のCovid-19で、PCR検査の感度が8割にすぎないだとか誤判定が多いとかいう初期の「検査スンナ派」の主張はどうもここから来ているふしがあります。で、これに関しては10年経ったら技術の進歩があるってことを想定してないのもどうかと思いますが、ただ、この時点ですら、私の知り合いの関係者の複数の方から、「横浜衛研の技術水準から考えて、この時点でRT-PCRの結果はちゃんと出ていて、それがストレートにクロだったから病院に収容し、大臣が記者会見を設定したはず。そのあと、水際作戦が大失敗だったことを認めたくない厚労省からクレームが来て、感染研の検査ではシロと出たと主張し、無理に撤回させられたのではないか」という疑惑が表明されていたことは付記しておきます。

さらにばらしちゃいますと、このとき、この豚インフルの遺伝子データ自体、米国CDCから送られてきたものを、全国の研究機関に回してみんなで総力を上げて研究したらよいものを、なぜか、感染研が抱え込んでしまって出さないので、大学などの研究機関の人たちがイライラしていましたよ。結果的に豚インフルは「大したことない、ただのインフル」レベルだったから良かったようなものの、こういう事態なのに縄張りに固執するのかぁ的な、かなりアレな危機対応だったのは確かです。

(なんであたくしがこういう事を知っているかといいますと、思い余った研究者の方々から、メキシコと強いコネクションがあるあたくしのところに、いろいろ問い合わせがあったからです)

結果からいうと、メキシコ豚インフルは、当初、世界を震撼させましたが、今の新型コロナのようなことになりませんでした。
その理由は簡単で、危惧されたような強毒性ではまったくなかったからです。もちろん死者が出たのは事実ですが、例年のインフルエンザと大して変わらないものだったわけですね。

(ちなみに、感染症としては、その前のSARS(SARS-CoV-1)のほうが致命率は遥かに高かったのですが、早い時期に封じ込めに成功したため、局所的な流行にとどまり、こちらも大事には至らなかったのは皆さん御存知の通り)

で、現在の新型コロナに対して、各国の対処が後手後手に回ったのは、このときの「大山鳴動ネズミ一匹」感が強かったことと、実は無関係ではありません。
新型ウイルスによるパンデミックをリアリティを持って描いた2011年のヒット映画『コンテイジョン』でも、そういう台詞があります。

では、なぜ、メキシコ豚インフルに関しては、その程度のものが、当時、一時とはいえ、あそこまで「世界を震撼させるニュース」となったのか。

その最大の理由は、メキシコで、「若い人が感染しやすく、しかもバタバタ死んでいる」と大々的に報道され、メキシコ政府が速攻で緊急事態宣言を出したところにあります。

ここで、「結果的にそこまでする必要はなかったけど、メキシコ政府は危機管理に熱心だったんだな」と思ったあなたは考えが甘いですよ。
当時のメキシコは、そういう状態ではなかったからです。

この少し前、2006年に、メキシコでは大波乱となった大統領選挙がありました。この話は、ちゃんと書くと長くなるので、ものすごく端折って説明しますね。

当時、人気絶頂の野党知事が大統領選に満を持して立候補表明したのですが、その支持率たるや首都圏でなんと80%。このまま大統領選挙となれば、政権交代になることは、ほぼ誰の目にも明らかな情勢でした。

そこで突然起こったのが、「メキシコ版陸山会事件」といえるような事件です。その候補ロペス=オブラドールに突然、収賄疑惑が持ち上がり、なぜか秘書が大金を受け取っているのを隠し撮りしたとされるビデオがテレビで公開され、大スキャンダルとなったのです。
(クリーンに見える候補ほど、この手のスキャンダルが出たときにダメージが大きいのは、前に書いたとおり

結局、そのビデオは捏造と判明し、「証人」として出てきた人物の証言も矛盾だらけで、とうてい信憑性がないことが明らかになったのですが、それでも、メキシコ検察は暴走し、今度は「書類の書き間違いミス」を理由に大統領候補を訴追しようとします。(うわー、デジャブ感すごいですね。ただし、陸山会事件は、このメキシコの一件の3年後です)

さすがに、政治家本人が知るわけないスタッフの書き間違いレベル(それも耳を疑うレベルのショボさ)で、百歩譲っても修正申告すれば終わりじゃん、みたいなネタをたてに、現役政治家、それも最有力大統領候補を逮捕しようとする動きには、メキシコ中のまともな人が、民主主義を踏みにじるものとして声を上げたわけです。

そして、その挙げ句、ある新聞のスクープで、この野党候補をなんとかして嵌めようとした密談の録音記録がリークされるに至って、100万人のデモ隊が大統領宮殿を取り囲む騒ぎとなり、さすがに検事総長が辞任し、検察は逮捕を取り下げるということで、この件は決着します。しかし、この騒動の間もその後も、野党候補は「疑惑がある」として、政府の息のかかった TVでバッシングされ続けていました。

で、その状態で、大統領選挙が行われたわけですが、なぜか、投票直前になって電子投票に切り替えられるなど、いろいろ、土壇場で「奇妙な」手続き変更がなされ、しかもなぜか「無効票」が1割近く出るなどという不思議なことがあったあげくに、1%に満たない微妙な差で、その野党候補は敗北します。

当然ながら、この大統領選は、多くの国民の不信を買いました。今回の米国大統領選挙とは全く別の意味でね。
ていうか、まともな人なら、明らかにおかしいやろと思うレベル。

あまりの世論の批判に、新大統領カルデロンは、メキシコ史上初めて、公開の場で大統領就任式典ができなかったほどでした。ほんとは、憲法広場に面した大統領宮殿の広いバルコニーでやるんですけどね、ブーイングの渦になるのが目に見えてたんで、非公開で、大統領宮殿の中でひっそりやったわけですよ。つまり、トランプや安倍みたいに、就任式の間ぐらい盛り上げてくれそうな アレな 熱狂的な支持者すらいなかったわけ。

ですから、就任後もメキシコシティにはデモの嵐が吹き荒れていました。その中心にいたのが、あの国の場合、若者世代だったわけです。メキシコの若者は、本をたくさん読みますし、政治を語るのは未来を担う自分たちの権利だと思っていますからね。

そのタイミングでの、豚インフル「突如襲来」だったわけです。
さすがに、若者がバタバタ罹患して死んでいるということになると、デモどころではないですよね。
コンサートやライブも中止、レストランも閉鎖(テイクアウトと配達のみ営業)。当然、反大統領デモ....とりわけ、史上最大規模の抗議集会となるはずだったメーデーのイベントも中止。

で、史上最低の支持率だった新大統領はというと、この危機に、あたかも 吉村大阪知事の 水を得た魚の如く、TV出ずっぱりで、さも「やったふり」感ある演説などの成果で、それなりに支持率も上がります。

が、それが、どうもおかしいんじゃないかということになったのは、それから数週間後。

日本でも、メキシコ産というだけでアボカドが店頭から消えたり、メキシコ料理店が閑散としたり、豚肉の売上が下がったりというすごい見当違いな影響まで与えた「きわめて危険な感染症」のわりに、その肝心のメキシコで、

「それはいいけど、知り合いで罹った人いる?」
「誰か具体的に死んだ人、知ってる?」
......って話になっちゃったんです。

で、実際に、私の友人が、ある依頼を受けて、インタビューをしようと病院関係者などに当たってみたら、驚くべき事実が。

「統計数字上では大発生しているはずの首都圏なのに、豚インフル患者を多数治療したり、死者を看取ったという病院自体が、聞いて回った限りではひとつもないし、紹介してもらおうにも、医療関係者すら知らない」という「はあ?」みたいなことになったと。

あまりのことに、最初は病院側の隠蔽も疑ったようですが、病院で働いていらっしゃる皆さんの雰囲気を見ていると、どうもそういう気配もない、というわけ。ていうか、一病院だけならともかく、公立私立を問わず複数の病院やクリニックが、口を揃えて隠蔽するってちょっと無理があるし。

となると、バタバタ死んでたはずの死者はどこに行ったのかという話ですよ。ゾンビになって蘇るわけないんだから。

そして、5月中旬になると、今度はメキシコの死者数統計がころころ変わり、その数字が無茶苦茶すぎて、もう誰も政府発表を信頼できないというレベルに。
検査方法が変わったからとか定義が変わったからと言われたって、死人の数がポロポロ変わる......それも、超過死亡を計上してどんどん増えるならわかるのですが......どんどん少ない方に変わるって、ありえないっす。

挙句の果てに、数日で数百人に及んでいたはずの死者が、実はたったの 7人でした、とか....(爆)
http://nobuyoyagi.blog16.fc2.com/blog-entry-358.html

で、このあたりになると、メキシコ(の政府発表)以外では、全世界的にも死者はあんまり出ていないということも統計的に明らかになって、豚インフルは存在はするけどぜんぜん大したことないというコンセンサスが、世界的なものとなったわけです。

その一方でですね、これが明らかになる前に、メキシコは国家危機だと大騒ぎしたことで、かなりの額の海外援助を獲得したわけですよ。世銀から、2億500万ドルの供与です。それ以外にも、世界各国から援助が届いてます。さらに、緊急事態宣言でメキシコの株価や為替は一時的に大幅落したわけですが、株や通貨レートが下がるのが予めわかっていたら.......もちろんボロ儲けできる人がいますよね。そういう疑惑も......

で、本来なら、その後、その疑惑が延々突っ込まれることになるはずだったのでしょうが、それと前後して、その問題のカルデロン大統領は「麻薬戦争」と称して、マフィアに喧嘩を売り、メキシコ全土を混乱に叩き込むという、超特大ガチャポンをやってくれたわけです。

やばくなると戦争を始めるというのは、トンデモな権力者の常套手段ですが、メキシコの場合、なんぼなんでも隣の米国に宣戦布告できないし、グァテマラじゃ戦争にならないし、ってところで、大義名分が立ちそうだったのが、麻薬ってことですね。これが実は、いまでもメキシコを蝕んでいる麻薬テロの元凶です。

それまでだって、メキシコに麻薬マフィアはいましたが、メキシコって単なる通り道だったんで、まあ、マフィアがそれで儲けるっていうことについての道義性や犯罪性はさておいて、実は一般のメキシコ人の生活にはあんまり関係なかったんですが、メキシコ政府が本腰でマフィアと戦争はじめたもんだから、国内の治安がぼろぼろになり、民間人が多数巻き添えになるという事態となったわけです。まあ、日本各地で、暴力団の死にものぐるいの本格的抗争が始まったというような状況を想定してもらえればと思います。しかも、そこに米国からじゃぶじゃぶ武器が流れ込むわけでしてね。
そうやって、それまでの、日本の女子大生でも一人旅で呑気に気軽に田舎を旅行できるようなメキシコは、もろくも消えてしまったわけです。

まあ、これと比べれば、国民の窮乏をよそに、アベノマスクやら持続化給付金といったコロナ対策まで利用してちゃっかりお友達利権を作る程度の安倍とか菅は、しょせん小悪党に過ぎないとはいえなくはないですが。

救いは、先に述べた2006年大統領選で、みんな納得のできない負け方をした大統領候補ロペス=オブラドールが、いま、政権の座にあるということですが、(一昨年、彼が大統領選で勝ったとき、たくさんの人たちが憲法広場に三々五々集まって、感動のあまり号泣していたのは、そういう理由です)、なんせ、10年に渡る麻薬戦争で、もう国内ボロボロだし、20年以上続いた新自由主義で、片っ端から民営化されてしまっているし、あげくにメキシコの収入源の石油も暴落でと、三重苦の中で苦戦しているようなのが気の毒です。
日本で(大阪で)政権交代が起こっても、さんざんボロボロにされ食い物にされ尽くしてしまったあとだと、後継者が立て直すといっても、そう容易なことではないという実例がここにありますので、皆さん、ずるずる騙され続けないように、腹をくくってくださいね。

新型コロナ感染拡大のもとで、あえておすすめ

  新型コロナが新たな感染爆発のステージに入ったようですね。
 最近になって、後遺症の問題も取り沙汰されるようになってきましたが、新型コロナは、軽症でも、後にきつい後遺症が出る可能性があるなんてのは、外国では4月から報告が上がっていたことで、私だって、5月の段階でプログに書いておりました。
 なにをいまさら、なんですが、それまで、そこのところは「目をつぶって知らないふり」をしてきたんですよね。メディアも、厚労省も。

 で....忘年会や帰省どころではなくなった皆様に、地味だけど、面白い書籍のご紹介です。
 そう。クリスマスケーキみたいな派手さはないんですが、スルメのように、噛んでるとじわじわ旨味がくるような。
 
 山岡淳一郎著 「ドキュメント感染症利権ー医療を蝕む闇の構造」
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 とにかく、現在に至る日本の医療の構造的な問題がよくわかる。
 読み始めてしばらくは、タイトルと内容が乖離しているような印象を持ちます。というのも「利権」という生々しくも腥いタイトルを名乗り、まさに旬の新型コロナ噺で始めておきながら、それは束の間、第一章のそれも23ページ目あたりから、舞台が明治に飛んでしまうからだ。
 で、この明治期のコレラやペストの防疫談がじっくり二章で語られ、さらに第三章で731部隊の暗史が語られます。さらにその次の章が、ハンセン病問題。
 それは、私達が断片的には知っているが、じつはよく知らなかったことを改めて思い知らさせる......つまり、積極的に語られてこなかった近代日本史の暗部の物語だ。それを筆者はよく調べ、調査し掘り起こし、低いが明快な声でじっくりと語る。
 なので興味深い。内容も濃いのではあるが、しかし、タイトルとの乖離を感じてしまったわけだ。
 今の日本の医療が、明治に端を発する霞が関の権力争いや学閥のゆえに、現場の医師たちの良心や覇気とは別のフレームで歪まされてきたことが、切なくもじわじわと迫ってくるものの、「でも、それ、利権と言ってしまうのはちょっと違うのでは?」と思ってしまったからだ。
 しかし、その不満は、最終の第5章で反転する。
 つまり、そこまでが長い前置きなのだ。明治以来の、戦中の、そして戦後の、日本の医療行政の上を覆ってきた「政治」と「官僚主義」の歴史を頭に入れてこそはっきり見える薬害エイズ事件。そして、それはそのまま、現在の新型コロナへの政府対応とも重なってくる。
 そして、エイズ問題あたりから世界を跋扈するワクチン開発利権という異形の怪物とのからみが生々しく理解できるという仕組みになっている。そのあたり、鮮やかである。
 地味ながら、読み応えがあり、ためになる一冊。

 そして、もう一冊。これまた一見地味だけど、ものすごく面白い本。

 市川寛著 「ナリ検 ある次席検事の挑戦」
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 はい。あの、ニコ生史上に残る爆弾発言の主、「検事失格」の市川寛氏です。それも小説です。
 ナリ検というのは、ヤメ検、すなわち、検事から弁護士に転身した法曹を指す、やや揶揄的な表現から持ってきているのは明らかで、本書では、弁護士から検察官に転身した次席検事を主人公として物語が描かれる。
 もっとも、弁護士が選挙で検事になる米国の制度とは違って、日本では、司法修習生からそのまま生え抜きの検事になるのがほぼ慣例なので(例外的に、検察事務官から副検事を経て検事になることもあるが)、弁護士から検事になった例というのはないはずだ。なので、そこはフィクションということ。
 で、この小説の何が面白いかというと、まさに「弁護士の心を持っている検事」が主役として、「検察の常識」と戦っていく話だからだ。
 傍から見れば、なんでそうなるの、という論理展開であっても、検察生え抜きでその世界しか知らない人には、それをおかしいとは思わない。「世間の常識」や「本来の法の趣旨」から明らかに乖離していることであっても、それが見えない。なぜなら、検察の価値観しか知らず、それに染められているからだ。そういう世界の中では、「普通の(まっとうな)価値観」を持っている方が「異常」ということになる。
 いったん起訴と決めたら、絶対に有罪にしなければならない。あとで事実誤認があったことに気づいても、あとで被告に有利な証拠や証言が出てきても、それは黙殺し、最初に決めたレールの上をあくまで走ろうとする。冤罪が起これば、被疑者にとっては一生の問題なのだが、そんなことを顧みられることはない。
 その、まさに冤罪を生みかねない「価値判断」や「基準」が、しかし、それを何の疑問も持たず、むしろそれこそが正義と本気で信じる(そしてもちろん、馬鹿だからなのではなくて、優秀な頭脳を持っている)人たちが、国家権力という威光の剣を自在に振るっているという現実は、前述の「感染症利権」のあとには更に生々しく感じられる。
 地味というのは、これだけ恰好の素材であるにもかかわらず、肝心の事件がいまいち地味だということだ。もしかしたら、その地味さは、筆者市川さんの実体験に即しているからなのかもしれない。
 ただ、せっかく小説なんだから、連続殺人事件とか猟奇犯罪とか、あるいは汚職とか、もうちょっとでかくて派手な風呂敷を広げても良かったのではないかというところが惜しいというか、ちょっと勿体ない。
 もちろん、本書はわざと地味に置いた布石であって、市川氏には二作目・三作目の大構想があるのかもしれない。なんたって設定は抜群に面白いのだから。
 とにかく細部に渡るリアリティはものすごいうえ、検察実務についても詳細に描かれているので、ミステリファンなら読んで絶対に損はない一冊だ。

 そして、三冊目。
 青谷 知己、小倉志郎他 (著)「原発は日本を滅ぼす
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 新型コロナの感染の広がりの中で、検査を受けられずに亡くなった方のニュースが話題となり、一方で、たまりかねたかのように民間が開始した格安のPCR検査に予約が殺到する状況の下、初期に跋扈していた「PCR検査抑制説」つまり、PCR検査には偽陽性や偽陰性が多く信頼性が低いだの、ものすごい職人技が必要なので増やすのは不可能だのといったアレな論議が立ち消えになり、というか、居丈高にそういった主張をしていた人たちが、さりげなくWebページやエントリを削除して逃亡したり、「自分の主張の真意はそうではない」的な逃げに入っている今日このごろ、これって、なんか、あの時と似ていますよねえ。
 原発に関しても、居丈高にその必要性を語り、反対派を嘲笑するような人達がけっこういた(いまでもいます)ものですが、この本は、まさに専門家、つまり、あのフクイチの設計者も含む原発技術者というプロ中のプロが、その手の「俺は知っているんだから、〇〇脳の素人は黙っとけ」系の連中の詭弁やデマや嘘を完全論破している本です。

 ちなみに、アマゾンで、一つ星レビューをつけている方が、「筆者らは原発事故後に180度主張を変えた二枚舌だから本書の内容が信頼できない」と主張していますが、それは明らかなデマです。私は筆者のお一人を個人的に存じていますが、福島原発事故の前から、原発の問題点や危険性についてシリアスな指摘をされていました。(最も当時は、当然ながら、具体的に津波災害を予見していたわけではなく、火災やテロなどを想定しての指摘だったのは仕方がないでしょう)。こういう虚偽まで書いて評価を落とそうとするあたり、まさに「ここに書かれていることが、よっぽど都合が悪い人たち」がいるということですね。

 そういえば、原発事故の前、九州電力だったかの公聴会で、原発賛成派の人が「原発で事故が起こらなかったら、原発反対派は責任を取れるんですか?」なんていう超絶珍妙な論理を吐いていたりしていたものですが、あの人は、福島で事故が起こったあと、いったいどういう責任をとったのでしょうね。

 危機管理をさんざん蔑ろにしたあげく、トラブルが起こると、バックれるか、慌てて責任転嫁、というのって、まさに看護学校や病院の補助金をバンバン削り、新型コロナの危険性がわかってきた初段階でも雨ガッパ集めたり、イソジンうがいがコロナに効くなんていうデマを吹聴し、自分の利権がらみの都構想のために奔走していた挙げ句に、感染爆発を招くと被害者ヅラで自衛隊に泣きつく大阪府知事が再現してくれているようです。ああ、そういえば、そこにもアンジェスとかいう、失笑するしかないような経営状態の会社非現実的なワクチン開発なんていう利権ぽいものがありましたねえ。
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刑事司法への問い (シリーズ 刑事司法を考える 第0巻) (岩波書店)
日本の刑事司法の何が問題か、どのような改革が求められているか。刑事法研究者、実務法曹の他、八木も執筆しております。
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