キューバでの想い出(その1)
私がキューバに最初に行ったのは1983年のことだった。それはメキシコ人学生向けの激安パックツアーで、往復の航空チケットと安ホテルだけ、というパッケージだった。
その頃の私は、キューバって北朝鮮みたいなところだと信じていたので、話の種に行ってみよう、これが最初で最後だし、と思ったのだ。
到着したハバナの空港はしょぼくて、葉巻の香りが漂っていた。
空港からホテルまでバスで着くと、国営旅行社クーバツールのお姉ちゃんが、
「帰国便に乗るための送迎バスの時間だけは厳守してくださいね。乗り遅れたら自腹で正規運賃払ってもらうことになりますよ。ではあとはご自由に」
ツアーの中にいたメキシコ人の男の子が、「あのー、このホテル以外のところに泊まってもいいですか?」
私は、その質問に、こいつ馬鹿じゃないのかと思った。『社会主義国』だよ、ここは。
しかし旅行者のお姉ちゃんは、にっこり笑ってこういった。
「キューバ人の彼女できるかもしれないじゃない。野暮なこと言わないわよ。あんたの守らなきゃいけないルールは、帰りの送迎バスの時間厳守だけ」
その日からハバナの街を散策しまくった。街で知り合いになった人の家にも遊びに行った。
それでも疑いを捨てきれなかった。私が見ているのは一面ではないのか。
知り合いになったキューバ人にそう言ったら、あっさりと「だったら、田舎に行ってみればいい」
「えっ、行けるの?」
相手は呆れたように答えた。「そりゃバスか列車に乗ったらね」
ただ、そのパック旅は地方に行くには短すぎた。数年後、私はキューバに戻った。
その前に、ダイヤモンド社の『地球の歩き方』編集部に売り込んだ。私はすでにメキシコ編の一部を執筆しているライターだったからだ。しかし、答えはノーだった。
「社会主義国で、自由旅行なんてできるわけないでしょ。できないとわかっているものに取材費は出せません」
(当時の「地球の歩き方」は今と違って、個人自由旅行者向けの本だったのだ)
そこで、私は、「自由旅行をしてみせたら、キューバ編を刊行する」という約束を取りつけてキューバに旅立つことにした。そして、まずメキシコで情報を集め、ビザを取った。
そんなある日、メキシコのホテルのロビーで、まったく偶然に、ちょうどキューバからメキシコに公演に来ていた音楽家のパブロ・ミラネスにばったり会った。
見たで、その顔。ポスターで。
げ。パブロ・ミラネスやん。本物の。
驚いていたら、当のパブロ・ミラネスは私を見て、隣にいた友人に言った。
「中国人の子が、オレ見てびびってるよ。きっと、はじめてナマで黒人見たんだぜ」
「私は中国人じゃなくて、びびってるんでもありません。パブロ・ミラネスさん」
スペイン語でそう返すと、パブロは真っ赤になって(黒人だけど)、謝罪した。お詫びにとコーラをおごってくれた。(子供扱いやな)
その時に、彼に尋ねた。
「キューバにちょっと長期で行きたいと思ってるんですけど、なんか問題ありますかね」
「問題って?」
「危険とか犯罪とか」
すると、パブロ・ミラネスはにたっと笑って、こう言った。
「キューバはすごく危険だよ。行ったらキミはぜったい心を奪われるね」
それで、私はキューバに行った。ハバナでは外国人向けの高いホテルは最初の一泊だけして、あとはキャンセル。キューバ人向けの激安ホテルに引っ越した。そのホテルに外国人が泊まったことは長らくなかったらしく、ホテルのスタッフは大喜びだった。ついでに、他の宿泊客(地方から出張で来ていたキューバ人)ともいろいろ知り合い、地方旅行の情報をせしめることができたのは僥倖だった。
日本の映画関係者の人に頼まれた資料のために、地方に出る前に、国営映画公社ICAICのオフィスを訪ねた。ちょうど、黒澤明映画週間の準備中だった。たまたま、そこにいた背の高い兄ちゃんに訊かれた。
「お父さんは(日本)大使館の人?」
「違います」
「キューバに親戚とかいるの?」
「いません」
「なんかの団体?」
「ひとりです」
「ひとりで? なにしにキューバに来たの?」
「来たらいけませんか」
その人は困った顔で言った。
「いやだって、日本は米国べったりだろ。だから、キューバのことも、散々ひどいことを言われてるんじゃないかと思って」
「それはまあ、そのとおりですね」
「それなのに、キューバに来るって....怖いとか思わなかったの」
「自分の目と足で確認しないことは、たやすくは信じないたちなんです」
「君、変わってるな」
「よく言われますね」
すると、その兄ちゃんは、ポケットからメモ用紙を出して、自分の名前と電話番号をメモして、こう言った。
「じゃあ、こうしよう。僕が君の最初のキューバ人の友達になるから、君がぼくの最初の日本人の友達になってくれないかな」
「あなたと友達になって、私に何かメリットあります?」
「......困ったことがあったら、できるだけのことはするよ。それが友達ってことだと思うから」
その『私のキューバ人の最初の友達』とは、いろいろ紆余曲折はあったが、いまでも友情が続いている。
その友達の最初のアドバイスはこうだった。ヒッチハイクする時は、アメ車よりラダ(ソ連製の車)かモスコビッチ(ソ連製の車)を狙え。(※1986年時の話です)
「ラダとかモスコビッチに乗っているのって政府関係者が多いので、犯罪に巻き込まれる可能性が圧倒的に低いと思う」
「キューバって犯罪多いんですか」
「いや、あんまり聞かないけど、ただ、どんな国でも犯罪はあるよ。用心はするに越したことないからね」
そして、地方を2か月弱歩いた。どこでも日本人は珍しかったので(※1980年代のことね)、よく「可哀想なベトナム人の留学生」と間違われて、道ゆくおばあさんとかがお菓子とかパンをめぐんでくれた。
地方での旅も、キューバ人向けの激安ホテルに泊まり、宿のないところでは、バスの中で知り合ったキューバ人のご家庭に泊めてもらった。
そういう旅が可能だったのが、日本では「とんでもなく危険な国」「そもそも自由旅行なんてできるわけがない」と思われていたその頃のキューバだった。
この貧乏旅行でとったメモは、その後、ダイヤモンド社から出た日本で最初のキューバの旅行ガイドブック「地球の歩き方 メキシコ・キューバ・中米編」という形で日の目を見る。
『生きていくために』パブロ・ミラネス
その頃の私は、キューバって北朝鮮みたいなところだと信じていたので、話の種に行ってみよう、これが最初で最後だし、と思ったのだ。
到着したハバナの空港はしょぼくて、葉巻の香りが漂っていた。
空港からホテルまでバスで着くと、国営旅行社クーバツールのお姉ちゃんが、
「帰国便に乗るための送迎バスの時間だけは厳守してくださいね。乗り遅れたら自腹で正規運賃払ってもらうことになりますよ。ではあとはご自由に」
ツアーの中にいたメキシコ人の男の子が、「あのー、このホテル以外のところに泊まってもいいですか?」
私は、その質問に、こいつ馬鹿じゃないのかと思った。『社会主義国』だよ、ここは。
しかし旅行者のお姉ちゃんは、にっこり笑ってこういった。
「キューバ人の彼女できるかもしれないじゃない。野暮なこと言わないわよ。あんたの守らなきゃいけないルールは、帰りの送迎バスの時間厳守だけ」
その日からハバナの街を散策しまくった。街で知り合いになった人の家にも遊びに行った。
それでも疑いを捨てきれなかった。私が見ているのは一面ではないのか。
知り合いになったキューバ人にそう言ったら、あっさりと「だったら、田舎に行ってみればいい」
「えっ、行けるの?」
相手は呆れたように答えた。「そりゃバスか列車に乗ったらね」
ただ、そのパック旅は地方に行くには短すぎた。数年後、私はキューバに戻った。
その前に、ダイヤモンド社の『地球の歩き方』編集部に売り込んだ。私はすでにメキシコ編の一部を執筆しているライターだったからだ。しかし、答えはノーだった。
「社会主義国で、自由旅行なんてできるわけないでしょ。できないとわかっているものに取材費は出せません」
(当時の「地球の歩き方」は今と違って、個人自由旅行者向けの本だったのだ)
そこで、私は、「自由旅行をしてみせたら、キューバ編を刊行する」という約束を取りつけてキューバに旅立つことにした。そして、まずメキシコで情報を集め、ビザを取った。
そんなある日、メキシコのホテルのロビーで、まったく偶然に、ちょうどキューバからメキシコに公演に来ていた音楽家のパブロ・ミラネスにばったり会った。
見たで、その顔。ポスターで。
げ。パブロ・ミラネスやん。本物の。
驚いていたら、当のパブロ・ミラネスは私を見て、隣にいた友人に言った。
「中国人の子が、オレ見てびびってるよ。きっと、はじめてナマで黒人見たんだぜ」
「私は中国人じゃなくて、びびってるんでもありません。パブロ・ミラネスさん」
スペイン語でそう返すと、パブロは真っ赤になって(黒人だけど)、謝罪した。お詫びにとコーラをおごってくれた。(子供扱いやな)
その時に、彼に尋ねた。
「キューバにちょっと長期で行きたいと思ってるんですけど、なんか問題ありますかね」
「問題って?」
「危険とか犯罪とか」
すると、パブロ・ミラネスはにたっと笑って、こう言った。
「キューバはすごく危険だよ。行ったらキミはぜったい心を奪われるね」
それで、私はキューバに行った。ハバナでは外国人向けの高いホテルは最初の一泊だけして、あとはキャンセル。キューバ人向けの激安ホテルに引っ越した。そのホテルに外国人が泊まったことは長らくなかったらしく、ホテルのスタッフは大喜びだった。ついでに、他の宿泊客(地方から出張で来ていたキューバ人)ともいろいろ知り合い、地方旅行の情報をせしめることができたのは僥倖だった。
日本の映画関係者の人に頼まれた資料のために、地方に出る前に、国営映画公社ICAICのオフィスを訪ねた。ちょうど、黒澤明映画週間の準備中だった。たまたま、そこにいた背の高い兄ちゃんに訊かれた。
「お父さんは(日本)大使館の人?」
「違います」
「キューバに親戚とかいるの?」
「いません」
「なんかの団体?」
「ひとりです」
「ひとりで? なにしにキューバに来たの?」
「来たらいけませんか」
その人は困った顔で言った。
「いやだって、日本は米国べったりだろ。だから、キューバのことも、散々ひどいことを言われてるんじゃないかと思って」
「それはまあ、そのとおりですね」
「それなのに、キューバに来るって....怖いとか思わなかったの」
「自分の目と足で確認しないことは、たやすくは信じないたちなんです」
「君、変わってるな」
「よく言われますね」
すると、その兄ちゃんは、ポケットからメモ用紙を出して、自分の名前と電話番号をメモして、こう言った。
「じゃあ、こうしよう。僕が君の最初のキューバ人の友達になるから、君がぼくの最初の日本人の友達になってくれないかな」
「あなたと友達になって、私に何かメリットあります?」
「......困ったことがあったら、できるだけのことはするよ。それが友達ってことだと思うから」
その『私のキューバ人の最初の友達』とは、いろいろ紆余曲折はあったが、いまでも友情が続いている。
その友達の最初のアドバイスはこうだった。ヒッチハイクする時は、アメ車よりラダ(ソ連製の車)かモスコビッチ(ソ連製の車)を狙え。(※1986年時の話です)
「ラダとかモスコビッチに乗っているのって政府関係者が多いので、犯罪に巻き込まれる可能性が圧倒的に低いと思う」
「キューバって犯罪多いんですか」
「いや、あんまり聞かないけど、ただ、どんな国でも犯罪はあるよ。用心はするに越したことないからね」
そして、地方を2か月弱歩いた。どこでも日本人は珍しかったので(※1980年代のことね)、よく「可哀想なベトナム人の留学生」と間違われて、道ゆくおばあさんとかがお菓子とかパンをめぐんでくれた。
地方での旅も、キューバ人向けの激安ホテルに泊まり、宿のないところでは、バスの中で知り合ったキューバ人のご家庭に泊めてもらった。
そういう旅が可能だったのが、日本では「とんでもなく危険な国」「そもそも自由旅行なんてできるわけがない」と思われていたその頃のキューバだった。
この貧乏旅行でとったメモは、その後、ダイヤモンド社から出た日本で最初のキューバの旅行ガイドブック「地球の歩き方 メキシコ・キューバ・中米編」という形で日の目を見る。
『生きていくために』パブロ・ミラネス