危険な男は囁く
「50年代のハバナ。ホテル・サン・ジョーンのピコ・トゥルキーノにいる気分でギターを弾くから、君もそのつもりで」
凄い指定である。
キューバ人以外で、こう言われてわかる人間がいたら、それは相当なヲタクである。
いや、キューバ人であっても、若い世代やカタギの人にはわかんないかもしれない。
50年代の革命前夜のハバナ。フィーリンの黄金時代。
フィーリン (Filin) とは、英語のFeelingからきた単語で、トローバとジャズが融合した、ロマンティックなキューバのバラード歌曲だ。
ハバナはヌエボ・ベダード地区の、当時のヒルトンホテル(現ハバナ・リブレ・ホテル)裏手にあったこぢんまりしたホテル・サンジョーン。その最上階にあった伝説的なバー「ピコ・トゥルキーノ」こそが、そのフィーリンの本拠だった。
ホセ・アントニオ・メンデス、セサル・ポルティージョ・デ・ラ・ルス、フランク・ドミンゲスといったあの時代の綺羅星のような作曲家たちが、みずから自作自演で弾き歌っていた場所。
むろん、私と同世代のフェリペ・バルデスがリアルタイムでそこにいたわけではない。というか生まれてすらいない。
しかし、彼は、伝説的な作曲家たちにかわいがられ、彼らの晩年にともに演奏し、フィーリンの女帝と呼ばれた大歌手エレーナ・ブルケの専属ギタリスト長年勤めてきた。誰もが認めるフィーリンのギターの第一人者だ。
そして、彼は、私が、「50年代のホテル・サン・ジョーンのピコ・トゥルキーノ」と言われて、それがどういうことを意味するか即座にわかる人間であることを知っている。
その瞬間、目を閉じれば、私はメキシコのレコーディングスタジオでTシャツとジーンズではなく、ラムと葉巻の香りに包まれて、黒い長いドレスを着てハイヒールを履いていた。
セサル・ポルティージョの名曲「愛の苦しみ」。
超絶技巧的でタイトでトリッキーなギターが、絶妙なバランスで歌を華やかに彩る。
そういう「古き良き時代のラテンの名曲なら全部インプットされていて、どんなキーででも完璧に演奏できる」生き字引みたいなギタリストに、あえて新曲の演奏まで頼む私は、かなり根性が悪い。というか、贅沢癖がついている。.....とは思う。
「君だからやるんだ。他の歌手なら断っている。たとえマレーナ・ブルケ(エレーナ・ブルケの娘)でもだ。ほかならぬ君だから、だよ」
出たあっ! そういうことを1mmのためらいもなく、耳元で囁くのが彼である。
すなわち、骨の髄までラテン男なんである。でも、ありがとう、恩に着るよ。
そしてもうひとつのジョローナ。こちらはギター・ヴァージョンだ。タイトで美しいギターが響く。
1時間半ほどで3曲の収録を終えると、フェリペは別れ際に私の頬にキスして言った。
「なにか政治関連で揉めてるらしいという話を聞いたときには、昔、君がニカラグアやキューバにいたせいでの、CIAがらみの蒸し返しなのかとばかり思っていたが、なんと日本のことだったとはねえ」
やっぱりその話かよ。
「新聞読んだよ。ホームページも見に行った。日本人は真面目で几帳面なだけに、暴走するとシャレにならんようだ」
あー、なるほどね、真面目で几帳面だから、暴走すると行くとこまで行っちゃうわけね。で、そういうことを君は熱く瞳を見つめながら、耳元で囁くわけね。
「アルバムの出来は問題ない。それ以外のことも大丈夫だとも。なにせあの時代の中米を経験している君だから、ビビることなんてどうせ何もないんだろう。ま、何かあったらいつでも電話してくれ。ここにいつだって君の役に立つ男がいる」
あのね。それって歌手にたいしての褒め言葉じゃないし、口説き文句にもなってないぞ、フェリペ。たとえ君が元特殊部隊だとしてもな。
凄い指定である。
キューバ人以外で、こう言われてわかる人間がいたら、それは相当なヲタクである。
いや、キューバ人であっても、若い世代やカタギの人にはわかんないかもしれない。
50年代の革命前夜のハバナ。フィーリンの黄金時代。
フィーリン (Filin) とは、英語のFeelingからきた単語で、トローバとジャズが融合した、ロマンティックなキューバのバラード歌曲だ。
ハバナはヌエボ・ベダード地区の、当時のヒルトンホテル(現ハバナ・リブレ・ホテル)裏手にあったこぢんまりしたホテル・サンジョーン。その最上階にあった伝説的なバー「ピコ・トゥルキーノ」こそが、そのフィーリンの本拠だった。
ホセ・アントニオ・メンデス、セサル・ポルティージョ・デ・ラ・ルス、フランク・ドミンゲスといったあの時代の綺羅星のような作曲家たちが、みずから自作自演で弾き歌っていた場所。
むろん、私と同世代のフェリペ・バルデスがリアルタイムでそこにいたわけではない。というか生まれてすらいない。
しかし、彼は、伝説的な作曲家たちにかわいがられ、彼らの晩年にともに演奏し、フィーリンの女帝と呼ばれた大歌手エレーナ・ブルケの専属ギタリスト長年勤めてきた。誰もが認めるフィーリンのギターの第一人者だ。
そして、彼は、私が、「50年代のホテル・サン・ジョーンのピコ・トゥルキーノ」と言われて、それがどういうことを意味するか即座にわかる人間であることを知っている。
その瞬間、目を閉じれば、私はメキシコのレコーディングスタジオでTシャツとジーンズではなく、ラムと葉巻の香りに包まれて、黒い長いドレスを着てハイヒールを履いていた。
私がどんなにあなたを想っているか
その気持ちを伝えることができたら....
その気持ちを伝えることができたら....
セサル・ポルティージョの名曲「愛の苦しみ」。
超絶技巧的でタイトでトリッキーなギターが、絶妙なバランスで歌を華やかに彩る。
そういう「古き良き時代のラテンの名曲なら全部インプットされていて、どんなキーででも完璧に演奏できる」生き字引みたいなギタリストに、あえて新曲の演奏まで頼む私は、かなり根性が悪い。というか、贅沢癖がついている。.....とは思う。
「君だからやるんだ。他の歌手なら断っている。たとえマレーナ・ブルケ(エレーナ・ブルケの娘)でもだ。ほかならぬ君だから、だよ」
出たあっ! そういうことを1mmのためらいもなく、耳元で囁くのが彼である。
すなわち、骨の髄までラテン男なんである。でも、ありがとう、恩に着るよ。
そしてもうひとつのジョローナ。こちらはギター・ヴァージョンだ。タイトで美しいギターが響く。
死者は理由を捜す
この世を離れていくために
そして私は生きていく
あなたを愛しているがゆえ
明日には死んでもいい
必要であれば、今日でさえ
それでもあなたの墓碑を建てずに
私がここから去ることはない
魚は口から朽ちると
古えの賢人は言う
あなたに口づけられるなら
あなたのために死ぬだろう
この世を離れていくために
そして私は生きていく
あなたを愛しているがゆえ
明日には死んでもいい
必要であれば、今日でさえ
それでもあなたの墓碑を建てずに
私がここから去ることはない
魚は口から朽ちると
古えの賢人は言う
あなたに口づけられるなら
あなたのために死ぬだろう
1時間半ほどで3曲の収録を終えると、フェリペは別れ際に私の頬にキスして言った。
「なにか政治関連で揉めてるらしいという話を聞いたときには、昔、君がニカラグアやキューバにいたせいでの、CIAがらみの蒸し返しなのかとばかり思っていたが、なんと日本のことだったとはねえ」
やっぱりその話かよ。
「新聞読んだよ。ホームページも見に行った。日本人は真面目で几帳面なだけに、暴走するとシャレにならんようだ」
あー、なるほどね、真面目で几帳面だから、暴走すると行くとこまで行っちゃうわけね。で、そういうことを君は熱く瞳を見つめながら、耳元で囁くわけね。
「アルバムの出来は問題ない。それ以外のことも大丈夫だとも。なにせあの時代の中米を経験している君だから、ビビることなんてどうせ何もないんだろう。ま、何かあったらいつでも電話してくれ。ここにいつだって君の役に立つ男がいる」
あのね。それって歌手にたいしての褒め言葉じゃないし、口説き文句にもなってないぞ、フェリペ。たとえ君が元特殊部隊だとしてもな。
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No title
エクアドルのクーデターでこちらさまを知ってから拝読しています。
>真面目で几帳面だから、暴走すると行くとこまで行っちゃうわけね
東京都の性表現規制について漫画家のゆうきまさみさんが
『「普通の人」は過剰反応するうえ過剰適応しがちだから、終いにゃ五人組とか隣組までいくよ』
と仰っていたのですが、これは同じことを言っているのだなあと感じます。牙の生えた羊の群れつうか…超怖いですこの国の普通のひとたち。
わたしはラテンアメリカの音楽に殆ど縁がなく鑑賞力も低いクラシック育ちなのですが、八木さんの歌声は本当に美しいと思いました。地方人故機会はなさそうですが、いつかコンサートにゆけたらと願いつつ。
>真面目で几帳面だから、暴走すると行くとこまで行っちゃうわけね
東京都の性表現規制について漫画家のゆうきまさみさんが
『「普通の人」は過剰反応するうえ過剰適応しがちだから、終いにゃ五人組とか隣組までいくよ』
と仰っていたのですが、これは同じことを言っているのだなあと感じます。牙の生えた羊の群れつうか…超怖いですこの国の普通のひとたち。
わたしはラテンアメリカの音楽に殆ど縁がなく鑑賞力も低いクラシック育ちなのですが、八木さんの歌声は本当に美しいと思いました。地方人故機会はなさそうですが、いつかコンサートにゆけたらと願いつつ。