カナリアを歌わせる人々
「君はしばらく録音していない。レコーディングが必要なら、このスタジオを好きに使えばいい」
オーナーの言葉に、私は耳を疑った。
ソニーやユニバーサルのようなメジャーの自社スタジオに匹敵するメキシコシティで最高の設備を誇るエスピラル。通常なら、1時間当たり数百ドルだ。
「悪いけど、私にそんな払えるお金なんかないわ」
「金など要らない」ぴしゃりとオーナーは言う。
「これはぼくの『友情の証し』だ。それに君は闘っているのだし」
「なんでそれを知ってるの?」
声明文は、ラテンアメリカの主要な人権団体や活動家には送っているが、友人知人津津浦々にまで送ってはいない。ましてや、富裕層に属する彼とは政治の話などしたことがない。てっきり新自由主義者だと思っていたからだ。
彼は驚いた顔をした。
「フェイスブックで.....たぶん、みんな知ってるよ」
「あのエスピラルを好きに使っていいって?」
メキシコ一美味しい(店のメニューには、「宇宙一の美味」と書いてある)アトレを啜りながら、ピアニストのレオナルドが言う。「夢のような美味しい話だ。で、録音したい曲はあるの?」
「....マルシアル・アレハンドロが、死ぬ前に私に送ってきた遺作が」
「なんてこった! では、すぐにとりかかればいい」
「そうはいかないわ。スタジオが無料でも人件費は実費だし、ミュージシャンのギャラだって必要だし。でも、いま、私はぜんぜんお金がないの。だから現実には....」
「ピアニストなら、最高のがここにいる」
「だって、あなたは...」
レオナルドは、この国の業界では有名なピアニストの一人だ。マンサネーロを始め、メジャーの人たちのレコーディングやコンサートに参加している売れっ子である。
「幸い、今月は数日ならスケジュールに空きがある。俺のピアノと君の歌。僕たちなら一発録りで大丈夫さ。シンプルだが素晴らしい録音ができるぞ。むろん、金は要らない」
「でも.....」
「この世で、俺以上に、君を美しく歌わせられるピアニストが他にいるとでも?」
いる。残念ながら。キューバのあの人が。でも、別格としかいいようのないあの人を別にすれば、確かに、レオナルドに文句の付けようはない。このメキシコなら、彼ほど私を美しく歌わせるピアニストはいないだろう。
「おまけに素材はマルシアル・アレハンドロの遺作。素晴らしい。そして、君は人をはらはらさせるばかりが能じゃないってことを証明できるさ」
「....だからなんでそれを?」
「俺が、きみのやっていることを知らないとでも?」
その翌日、ライブ用のリハーサルに来たホセ・モランが言った。
「君がレコーディングするという噂を聞いた」
「早耳ね。実はそうなの」
「ピアニストは?」
「レオナルド・サンドバルが....」
ホセは、一息ついてまくし立てる。
「あのさ。ぼくはここ数年、きっちり君のサポートをしてきたし、君とは仲良しだと思ってたんだけどな」
「いや、そうじゃなくて、レオナルドが自分から....つまりお金を払う話じゃないのよ」
「だからなに? ぼくがいままで一度でも、カネのこと言ったことある?」
その日から電話が鳴り出した。
「サックス奏者がいるなら声かけてね」
「バイオリンは....」
お祭り状態だ。
それでいったい何を録音するの? 遺作は一曲しかないんだが。
「ぼくにも、君が録音するのにぴったりの曲がいくつもある。いくつもだ」と、ラファエル・メンドーサが言った。
「もう一曲、マルシアル・アレハンドロの未発表曲がある」と、ホセ。「『人間たちへの讃歌』、あれは君に良いと思うよ。ぼくが編曲してもいい」
「駄目駄目駄目駄目。あの曲は俺が頂く」とレオナルド。「それから俺の作品にも、君の声にぴったりのがある」
「ぼくら吟遊詩人の歌は、コード進行や音楽理論ではない」
ギターを置いて、ダビッド・アロが言う。
「言葉が詩を産み出し、詩が旋律を連れてくる。ハーモニーはあとからついてくる」
吟遊詩人の歌の本質だ。
「そういうことを理解している人はどんどん減っている。音楽が産業になって、売るための工業製品になったからだ。ぼくらは絶滅危惧種だ」
遠い目で彼は言う。「マルシアルが逝ってしまって、ネグロが逝ってしまった。ぼくの仲間はどんどん減っていく」
私はため息をつく。すぐれた作曲家はいる。すぐれた作詞家もいる。シンガーソングライターといわれる人たちもいる。でも、吟遊詩人はそれとは違う。職業としてではなく、本能で言葉を弄び、詩を産み出し、歌わずにはいられない。それは死に至る病だ。むしろ、21世紀にいまだに存在することの方が、不思議な人種だ。
「わからないのは、なぜ、いまになって君が政治に首を突っ込んだのかだ」
私にだってわからない。ただ、そうしなくてはならないと思ったからだ。このきなくさい臭いに。誰かがやるべきことを。たまたまそこに居合わせたから。
「たぶん、私はカナリアだから」
「炭坑のカナリアか......」ダビッドは呟いた。
「そう。空気がおかしくなってくると、一番先に気がついて騒ぐの」
「それはそのとおりだ」ダビッドは目を細める。「でもね、そのカナリアの役割は、一番先に死ぬことなんだよ」
私は黙って苦笑いする。
「だからぼくにはわからない。きみは国境も言葉も飛び越えて、自由に飛んでいた。なぜいまになって、好きこのんで、自分から炭坑に入るのか」
「だから、いまがその時期だと思ったから。私の国の民主主義が...」
「....友達を護ろうとしたんだろう」
私は答えない。ダビッドは微笑む。
「なにもなければ、それでいい。しかし、もし本当に危険なことになったときに、君の友達が警告に気づくときには、カナリアは死んでいるんだよ」
なにもかもお見通しの詩人に私は答える。
「そう簡単にはいかないわ。だって炭坑の外に、私にはたくさんの友達がいて、みんな私が炭坑に入ったことを知っているのよ」
「カナリアの友達はカナリアだ。きみや、きみが護ろうとしている坑夫たちに何かがあれば、皆で大合唱を始める。............ぼくは詩を書くだろう。カナリアの詩をね」
ダビッドは目を細める。
「けれど、いまは君に、希望の歌をあげよう。昔書いたきり、なぜか一度も録音にも舞台にも出さなかった曲だ。あれは、いまの君のための曲だ.....希望の曲をあげよう」
気がつくと、10曲が揃っていた。
そして、皆が待っていた。
カナリアを美しく歌わせるために。.........私の背中を護るために。
オーナーの言葉に、私は耳を疑った。
ソニーやユニバーサルのようなメジャーの自社スタジオに匹敵するメキシコシティで最高の設備を誇るエスピラル。通常なら、1時間当たり数百ドルだ。
「悪いけど、私にそんな払えるお金なんかないわ」
「金など要らない」ぴしゃりとオーナーは言う。
「これはぼくの『友情の証し』だ。それに君は闘っているのだし」
「なんでそれを知ってるの?」
声明文は、ラテンアメリカの主要な人権団体や活動家には送っているが、友人知人津津浦々にまで送ってはいない。ましてや、富裕層に属する彼とは政治の話などしたことがない。てっきり新自由主義者だと思っていたからだ。
彼は驚いた顔をした。
「フェイスブックで.....たぶん、みんな知ってるよ」
「あのエスピラルを好きに使っていいって?」
メキシコ一美味しい(店のメニューには、「宇宙一の美味」と書いてある)アトレを啜りながら、ピアニストのレオナルドが言う。「夢のような美味しい話だ。で、録音したい曲はあるの?」
「....マルシアル・アレハンドロが、死ぬ前に私に送ってきた遺作が」
「なんてこった! では、すぐにとりかかればいい」
「そうはいかないわ。スタジオが無料でも人件費は実費だし、ミュージシャンのギャラだって必要だし。でも、いま、私はぜんぜんお金がないの。だから現実には....」
「ピアニストなら、最高のがここにいる」
「だって、あなたは...」
レオナルドは、この国の業界では有名なピアニストの一人だ。マンサネーロを始め、メジャーの人たちのレコーディングやコンサートに参加している売れっ子である。
「幸い、今月は数日ならスケジュールに空きがある。俺のピアノと君の歌。僕たちなら一発録りで大丈夫さ。シンプルだが素晴らしい録音ができるぞ。むろん、金は要らない」
「でも.....」
「この世で、俺以上に、君を美しく歌わせられるピアニストが他にいるとでも?」
いる。残念ながら。キューバのあの人が。でも、別格としかいいようのないあの人を別にすれば、確かに、レオナルドに文句の付けようはない。このメキシコなら、彼ほど私を美しく歌わせるピアニストはいないだろう。
「おまけに素材はマルシアル・アレハンドロの遺作。素晴らしい。そして、君は人をはらはらさせるばかりが能じゃないってことを証明できるさ」
「....だからなんでそれを?」
「俺が、きみのやっていることを知らないとでも?」
その翌日、ライブ用のリハーサルに来たホセ・モランが言った。
「君がレコーディングするという噂を聞いた」
「早耳ね。実はそうなの」
「ピアニストは?」
「レオナルド・サンドバルが....」
ホセは、一息ついてまくし立てる。
「あのさ。ぼくはここ数年、きっちり君のサポートをしてきたし、君とは仲良しだと思ってたんだけどな」
「いや、そうじゃなくて、レオナルドが自分から....つまりお金を払う話じゃないのよ」
「だからなに? ぼくがいままで一度でも、カネのこと言ったことある?」
その日から電話が鳴り出した。
「サックス奏者がいるなら声かけてね」
「バイオリンは....」
お祭り状態だ。
それでいったい何を録音するの? 遺作は一曲しかないんだが。
「ぼくにも、君が録音するのにぴったりの曲がいくつもある。いくつもだ」と、ラファエル・メンドーサが言った。
「もう一曲、マルシアル・アレハンドロの未発表曲がある」と、ホセ。「『人間たちへの讃歌』、あれは君に良いと思うよ。ぼくが編曲してもいい」
「駄目駄目駄目駄目。あの曲は俺が頂く」とレオナルド。「それから俺の作品にも、君の声にぴったりのがある」
「ぼくら吟遊詩人の歌は、コード進行や音楽理論ではない」
ギターを置いて、ダビッド・アロが言う。
「言葉が詩を産み出し、詩が旋律を連れてくる。ハーモニーはあとからついてくる」
吟遊詩人の歌の本質だ。
「そういうことを理解している人はどんどん減っている。音楽が産業になって、売るための工業製品になったからだ。ぼくらは絶滅危惧種だ」
遠い目で彼は言う。「マルシアルが逝ってしまって、ネグロが逝ってしまった。ぼくの仲間はどんどん減っていく」
私はため息をつく。すぐれた作曲家はいる。すぐれた作詞家もいる。シンガーソングライターといわれる人たちもいる。でも、吟遊詩人はそれとは違う。職業としてではなく、本能で言葉を弄び、詩を産み出し、歌わずにはいられない。それは死に至る病だ。むしろ、21世紀にいまだに存在することの方が、不思議な人種だ。
「わからないのは、なぜ、いまになって君が政治に首を突っ込んだのかだ」
私にだってわからない。ただ、そうしなくてはならないと思ったからだ。このきなくさい臭いに。誰かがやるべきことを。たまたまそこに居合わせたから。
「たぶん、私はカナリアだから」
「炭坑のカナリアか......」ダビッドは呟いた。
「そう。空気がおかしくなってくると、一番先に気がついて騒ぐの」
「それはそのとおりだ」ダビッドは目を細める。「でもね、そのカナリアの役割は、一番先に死ぬことなんだよ」
私は黙って苦笑いする。
「だからぼくにはわからない。きみは国境も言葉も飛び越えて、自由に飛んでいた。なぜいまになって、好きこのんで、自分から炭坑に入るのか」
「だから、いまがその時期だと思ったから。私の国の民主主義が...」
「....友達を護ろうとしたんだろう」
私は答えない。ダビッドは微笑む。
「なにもなければ、それでいい。しかし、もし本当に危険なことになったときに、君の友達が警告に気づくときには、カナリアは死んでいるんだよ」
なにもかもお見通しの詩人に私は答える。
「そう簡単にはいかないわ。だって炭坑の外に、私にはたくさんの友達がいて、みんな私が炭坑に入ったことを知っているのよ」
「カナリアの友達はカナリアだ。きみや、きみが護ろうとしている坑夫たちに何かがあれば、皆で大合唱を始める。............ぼくは詩を書くだろう。カナリアの詩をね」
ダビッドは目を細める。
「けれど、いまは君に、希望の歌をあげよう。昔書いたきり、なぜか一度も録音にも舞台にも出さなかった曲だ。あれは、いまの君のための曲だ.....希望の曲をあげよう」
気がつくと、10曲が揃っていた。
そして、皆が待っていた。
カナリアを美しく歌わせるために。.........私の背中を護るために。