消えた女


ゼリア・ナトルという女性がいた。
19世紀後半から20世紀にかけて大西洋を超える大活躍をし、しかし今日ほとんど忘れ去られている女性人類学者だ。
この、国境に縛られることのなかった、ヴィクトリア時代の美意識とルネサンス風の知的好奇心を体現した、ひとりの特異な女性メキシコ学者をテーマに、ちょっと面白い講演会があった。
講師は、一橋大学大学院教授の落合一泰先生。
「あっ、八木さんだ! 私いろいろ本持ってますよ!」といきなり言われて大変恐縮。
この方、お話も上手。しかもパワーポイントをいい感じで駆使して、パソコンの扱いも上級者と見た。
このテーマでは本邦初公演とは思えない手際である。
で、ゼリア・ナトル。スペイン語では、セリア・ヌッタル。
彼女はアイルランド系の父とメキシコ系母の血から混血の美貌と、ゴールドラッシュ時代のカリフォルニアで銀行家として大成功した大富豪の祖父の資産を受け継いだ、女性だった。
幼少時から、フランス・ドイツ、イタリアなどヨーロッパ各地で教育を受けた彼女は、その旺盛な行動力と知的関心で(そして、数カ国語を自在に操るその能力で)、略奪されたままヨーロッパ各地の博物館などにその価値を知られることもなく埋もれていた、古代メキシコの絵文書群、今日『ナトルの絵文書』の名で知られる第一級のアステカ時代の絵文書など再発見し、ヨーロッパやアメリカで、古代メキシコやペルーの文化の価値を知らしめるために奔走し、歴史的な論文もいくつも発表した。
なんたって、大富豪の孫である。
生活の心配をすることもなく、資料を捜して、世界中をいくらでも旅することもできるし、当時、研究者が自費で賄うしかなかった論文の出版費用だって、なんてことはないのだ。
そして、彼女はその特権と時間を、まさに古代メキシコ史の研究のために費やしたのだ。
その一方で、ヴィクトリア朝時代の優雅なドレスに身を包み、社交界の花形として活躍もしながら。
そのナトルは、その晩年を1933年まで、メキシコシティのコヨアカンに暮らした。
コヨアカンの敷地6千坪の豪邸に、素晴らしい図書館と古代メキシコに関する博物館を作り、そこはメキシコを訪れる外国人研究者や文化人のサロンとなった。
あのフリーダ・カーロやディエゴ・リベラの少し前の時代だ。
(フリーダとリベラの結婚が1930年)
コヨアカンの中でも、もっとも散歩をしていて楽しい道、フランシスコ・ソーサ通りの、茶がかった赤と白に塗られたその家の前を、私は何度歩いたことだろう。
(その先の公園に、メキシコで一番旨いアトレとタマレスと北部風のケサディージャを出してくれ、よく、音楽家や画家や作家や写真家などが溜まっている、八木お気に入りの軽食屋があるというのは置いといて)
『チャタレイ夫人の恋人』で知られるイギリスの作家D.H.ロレンスもその館を何度も訪れ、彼女自身、その作品にも登場する、知的にして孤高の貴婦人のモデルであったらしい。
その彼女が歴史から、ほとんど忘れ去られた理由。
功績から言えば、メキシコ考古学の母と言われて、しつこく回顧されてもいいぐらいの実績はあったわけなのだが....。
それは、彼女の功績はいろいろあったものの、その最終的な主張が、いまではトンデモ系とされる文化伝播説(すべての文明の起源はメソポタミアに遡れるという系統のもの)であったことと、メキシコの血を引くとはいえ、彼女の出自がアメリカの富豪であったということ。
そのいずれもが、革命後のメキシコ人のナショナリズムを逆撫でするものといえたのと、大学などで働く必要がなかったうえ、生活水準が高すぎたので、いわゆる弟子を送り出すこともなかったというのが大きいだろう。
彼女の経済的庇護を受けて高名な人類学者となったマヌエル・ガミオのような例外はあるが、やはり彼女の弟子ではなく、しょせんパトロン的存在だった。
(ガミオは後にメキシコ人類学の父と称えられるまでになるが、学説的にはナトルと相反するものとなる)
学説はともかくとしても、彼女の志を継いでくれる後継者に恵まれなかったため、(晩年にはさすがの大資産も使い果たしていたらしく)いま現存していれば、メキシコにとっても宝であったであろう彼女の収集品も散逸してしまった。
これらの要因が重なったことは、ヴィクトリア時代の終焉と彼女という強烈な個人の死ともに、彼女の経歴に幕を引くことになる。
いまではこの館が彼女のものであったことを知る人も少ない。